過去の新聞を読んで考えてみました—その3

2025年2月7日

スポンサーリンク

1937年11月14日に大日本帝国陸軍松井司令官が1万円、11月16日に大日本帝国海軍の長谷川長官が1万円をジャキノ神父の難民救済費として寄贈しましたが、1937年11月26日 朝日新聞を読むと日本軍の難民救済支援金があっても、救済対応できず、亡くなられていた人がいて、上海の共同租界やフランス租界で日に200名もの餓死者が出ており、上海事変でのこれまでの死者は1万8千人、このうち1万2千人は小児の死体であったと報じています。

ジャキノ神父は救済活動をする中で餓死していく小児たちを見てこの戦争を始めた蒋介石に対して人道の敵という思いを繰り返し思わされていたのではないでしょうか。この戦争を始めた蒋介石の責任は重いと言わざるを得ません。

下左の写真は南京占領後の日本兵と中国人難民たちの交流の姿です。下右の写真はイラク戦争の時のサマワでの自衛官と現地の子どもたちとの交流時の写真です。ジャキノ神父も難民支援者たちとのこのような交流があったと思います。この子供たちが目の前で餓死していくのを眼にしていたのです。つらかったと思います。戦争を始めた蒋介石を人道の敵と心に刻んでいたことと思います。

日本軍が南京占領を終え、漢口・重慶に移った蒋介石政権に対して次のように答えています。

蒋介石は人道の敵
漢口の自分たちは正義の日本軍の庇護を受けるのを千秋の思いで待っていました。日本軍の漢口占領は実に素早かったですよ。威風堂々たるものでした。支那軍の敗走もとても早かったです。難民は今十万といいまた30万ともいっていますが、はっきりした数字はわかりません。日本軍が来ればもう大丈夫です。すでに市民はほっとしています。救助委員会もできています。日本租界が悪逆な支那軍に蹂躙されたことは実に遺憾でした。私は5時間も6時間も支那軍と折衝しその無法を中止さすべく一生懸命に努めたのですがついに駄目でした。水源地を壊そうとした支那兵をやっと宥(なだ)めて止めさせた。壊したところで日本軍は立ちどころに復興するのだと言ったら「〇面子」(恥ずかしい)といっていました。危ないところで助かりました。日本軍の軍規風紀のりっぱなことは漢口市民は皆感謝をささげています。日本軍の庇護の下に漢口はぐんぐん復興の軌道を○○に走っていますね。ありがとう、ありがとう。

スポンサーリンク

日常過去の新聞

Posted by ヨセフ