情報の洪水のなかでどう生きるか
最近、ヤマギシ会についての本をよみました。
ヤマギシ会は1953年に創設されました。
山岸 巳代蔵 が提唱する理想社会の実現をめざす団体です。
団体は『すべての人が幸福である社会』を理念とし、農業を中心とした独自の村で共同生活をおこなっています。
しかし、ときがたつにつれ、この団体がカルトであるという批判がなされるようになります。1990年代にはメディアからつよい批判をうけるようになりました。
わたしはこのふたつの本をよみました。
ひとつ目は、ヤマギシ会の入会儀礼のひとつである特講についての本です。
ふたつ目は、親の影響からヤマギシズム学園に入学した子ども目線のノンフィクション小説です。いまなにかとさわがれている二世問題ともつながるおはなしですが、小説としてもおもしろくよみいってしまいました。
特講にしろ、ヤマギシズム学園にしろ、ヤマギシ会の関係者しかいない、とざされた場所ですごすことになります。
ヤマギシ会では、一日2食。日中は労働や研鑽会(はなしあい)をおこないます。身体的につかれやすい状態です。
そのなかでおなじ方向の情報にさらされつづけます。さらに、そのかんがえがまるで自分自身の発見であるかのように錯覚させるのです。
いまでは、インターネットの普及でかんたんに情報が手にはいるようになっています。
ヤマギシ会についてきいても、特講をうけにいくまえに情報をしらべることがたやすくなりました。
それはよいことですが、よいことだけでもないようです。
わざわざセミナーをうけにいかなくても、インターネットでたくさんの情報を一日じゅうあびることができます。
セミナーとちがって、主催者が意図的に情報統制することはありません。
しかしながら、インターネットでは主催者は情報統制しないかわりに、AIがあなたごのみの情報を提供します。
AIはあなたがこのみそうな情報ばかりをえらび、そうでない情報をかくすことで、ここちよい空間を提供するのです。
一見するととざされていないのに、実状はとざされた空間になっています。
ちかごろは情報過多シンドロームということがいわれるようになってきました。
たくさんの情報をみすぎることで、理解力や記憶力が低下し、かるい認知症のような症状におちいるというのです。
かんたんにいえば、情報づかれです。ここまでたくさんの情報を処理できるようには、ひとはできていません。
日本ではじめて情報社会を論じた梅棹忠夫氏は『わたしの生きがい論』のなかでこういっています。
老子は、自分でいろいろ一生懸命かんがえて、自覚的に問題を解決しようとすること自体を、否定しているように、わたしはおもいます。
さきほどもご質問ありましたけれども、われわれはみんな、しらぬまにそうなっている、つまり、自覚的に問題をつかみ、解決しようとしている。そしてそれが、真に人間的な生き方だとかんがえている。しかし、「それこそは悪の根源じゃないか」と、老子はかんがえる。わたしのすきな言葉なんですが、『老子』に、「我は愚人の心なるかな、沌沌たり」というのがあります。沌沌というのは、ぼんやりしているさま、と注釈がついています。ぼけっとしている。
……(中略)……
これどういうことかというと、「みんな気ばって一生懸命かんがえてがんばっとるわい。わしゃアホでっせ」ということです。ぼけっとしてますわ。そういうことなんです。これはじつにいいとわたしはおもうんです。ぼけっとする。一生懸命何かかんがえて、いいことかんがえたとおもっているかもしれん。いいことしたとおもっているかもしれん。わしゃそんなのみなやめですわ。「わしゃアホや。愚人の心だ」というんです。この前後は、一節がずっと韻をふんで、きれいな文章なんですが、わたしのたいへんすきな言葉です。
こういう生き方というのは、本当にこれこそ人間らしい生活じゃないか、生きがいみたいなものはわすれてしまった方が人間らしいんじゃないですか。
『わたしの生きがい論』P.90(ふりがなは筆者による)
このかんがえはアタマのかたすみにおいておきたいものです。
生きがいというのは、わたしはあってよいとおもいます。生きる原動力になりますから。しかしながら、そのなかでも、こうした一歩ひいた見方は大切だとおもうのです。
生きがいのなかに生きていても、このかんがえかたをちょっとおもいおこす。
そうすることで、自分の状態を冷静にみつめられるのではないでしょうか。
わたしは、宗教とカルトとのちがいは冷静さがあるかどうかだとおもっています。
一歩ひいた目線で生や死をおもうのが宗教だとしたら、カルトは生や死をわすれさせてしまうというわけです。
宗教とか、信仰というのは、情報や知識とはちがうのです。
人間がたくさんの情報を処理できないというなら、情報からはなれる時間をつくる必要があります。
さんぽでも、めいそうでも、ひとりキャンプでも、いのりでも、ペットとのふれあいでも、まあなんでもいいです。無心になれる時間があるとよい。
ざんねんながら、わたしはそのような時間をあまりもててはいませんでした。いまもそうかも。
このブログをかいたのはそういう反省の気もちのあらわれという側面はあります。
とりあえず、そんなところで。