情報の洪水のなかでどう生きるか

2023年9月27日

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 最近さいきんヤマギシかいについてのほんをよみました。

ヤマギシかいは1953ねん創設そうせつされました。

山岸やまぎし ぞう提唱ていしょうする理想りそう社会しゃかい実現じつげんをめざす団体だんたいです。

団体だんたいは『すべてのひと幸福こうふくである社会しゃかい』を理念りねんとし、農業のうぎょう中心ちゅうしんとした独自どくじむら共同きょうどう生活せいかつをおこなっています。

しかし、ときがたつにつれ、この団体だんたいカルトであるという批判ひはんがなされるようになります。1990年代ねんだいにはメディアからつよい批判ひはんをうけるようになりました。

わたしはこのふたつのほんをよみました。

夢の入り口: ヤマギシ会特別講習会(特講)について (響流選書)

根無し草: ヤマギシズム物語1 学園編

 ひとつは、ヤマギシかい入会にゅうかい儀礼ぎれいのひとつである特講とっこうについてのほんです。

ふたつは、おや影響えいきょうからヤマギシズム学園がくえん入学にゅうがくしたども目線めせんのノンフィクション小説しょうせつです。いまなにかとさわがれている二世にせい問題もんだいともつながるおはなしですが、小説しょうせつとしてもおもしろくよみいってしまいました。

 特講とっこうにしろ、ヤマギシズム学園がくえんにしろ、ヤマギシかい関係者かんけいしゃしかいない、とざされた場所ばしょですごすことになります。

ヤマギシかいでは、一日いちにちしょく日中にっちゅう労働ろうどう研鑽けんさんかい(はなしあい)をおこないます。身体しんたいてきにつかれやすい状態じょうたいです。

そのなかでおなじ方向ほうこう情報じょうほうにさらされつづけます。さらに、そのかんがえがまるで自分じぶん自身じしん発見はっけんであるかのように錯覚さっかくさせるのです。

 いまでは、インターネットの普及ふきゅうでかんたんに情報じょうほうにはいるようになっています。

ヤマギシかいについてきいても、特講とっこうをうけにいくまえに情報じょうほうをしらべることがたやすくなりました。

 それはよいことですが、よいことだけでもないようです。

わざわざセミナーをうけにいかなくても、インターネットでたくさんの情報じょうほう一日いちにちじゅうあびることができます。

セミナーとちがって、主催しゅさいしゃ意図いとてき情報じょうほう統制とうせいすることはありません。

 しかしながら、インターネットでは主催しゅさいしゃ情報じょうほう統制とうせいしないかわりに、AIがあなたごのみの情報じょうほう提供ていきょうします。

AIはあなたがこのみそうな情報じょうほうばかりをえらび、そうでない情報じょうほうをかくすことで、ここちよい空間くうかん提供ていきょうするのです。

一見いっけんするととざされていないのに、実状じつじょうはとざされた空間くうかんになっています。

 ちかごろは情報じょうほう過多かたシンドロームということがいわれるようになってきました。

たくさんの情報じょうほうをみすぎることで、理解りかいりょく記憶きおくりょく低下ていかし、かるい認知にんちしょうのような症状しょうじょうにおちいるというのです。

かんたんにいえば、情報じょうほうづかれです。ここまでたくさんの情報じょうほう処理しょりできるようには、ひとはできていません。

 日本にほんではじめて情報じょうほう社会しゃかいろんじた梅棹うめさお忠夫ただお『わたしのきがいろんのなかでこういっています。

 老子ろうしは、自分じぶんでいろいろ一生懸命いっしょうけんめいかんがえて、自覚じかくてき問題もんだい解決かいけつしようとすること自体じたいを、否定ひていしているように、わたしはおもいます。

 さきほどもご質問しつもんありましたけれども、われわれはみんな、しらぬまにそうなっている、つまり、自覚じかくてき問題もんだいをつかみ、解決かいけつしようとしている。そしてそれが、しん人間にんげんてきかただとかんがえている。しかし、「それこそはあく根源こんげんじゃないか」と、老子ろうしはかんがえる。わたしのすきな言葉ことばなんですが、『老子ろうし』に、「われ愚人ぐじんこころなるかな、沌沌とんとんたり」というのがあります。沌沌とんとんというのは、ぼんやりしているさま、と注釈ちゅうしゃくがついています。ぼけっとしている。

……(中略ちゅうりゃく)……

 これどういうことかというと、「みんなばって一生懸命いっしょうけんめいかんがえてがんばっとるわい。わしゃアホでっせ」ということです。ぼけっとしてますわ。そういうことなんです。これはじつにいいとわたしはおもうんです。ぼけっとする。一生懸命いっしょうけんめいなにかかんがえて、いいことかんがえたとおもっているかもしれん。いいことしたとおもっているかもしれん。わしゃそんなのみなやめですわ。「わしゃアホや。愚人ぐじんこころだ」というんです。この前後ぜんごは、一節いっせつがずっといんをふんで、きれいな文章ぶんしょうなんですが、わたしのたいへんすきな言葉ことばです。

 こういうかたというのは、本当ほんとうにこれこそ人間にんげんらしい生活せいかつじゃないか、きがいみたいなものはわすれてしまったほう人間にんげんらしいんじゃないですか。

『わたしの()きがい()P.90(ふりがなは筆者ひっしゃによる)

 このかんがえはアタマのかたすみにおいておきたいものです。

きがいというのは、わたしはあってよいとおもいます。きる原動力げんどうりょくになりますから。しかしながら、そのなかでも、こうした一歩いっぽひいた見方みかた大切たいせつだとおもうのです。

きがいのなかにきていても、このかんがえかたをちょっとおもいおこす。

そうすることで、自分じぶん状態じょうたい冷静れいせいにみつめられるのではないでしょうか。

 わたしは、宗教しゅうきょうとカルトとのちがいは冷静れいせいさがあるかどうかだとおもっています。

一歩いっぽひいた目線めせんせいをおもうのが宗教しゅうきょうだとしたら、カルトはせいをわすれさせてしまうというわけです。

宗教しゅうきょうとか、信仰しんこうというのは、情報じょうほう知識ちしきとはちがうのです。

 人間にんげんがたくさんの情報じょうほう処理しょりできないというなら、情報じょうほうからはなれる時間じかんをつくる必要ひつようがあります。

さんぽでも、めいそうでも、ひとりキャンプでも、いのりでも、ペットとのふれあいでも、まあなんでもいいです。無心むしんになれる時間じかんがあるとよい。

ざんねんながら、わたしはそのような時間じかんをあまりもててはいませんでした。いまもそうかも。

このブログをかいたのはそういう反省はんせいもちのあらわれという側面そくめんはあります。

とりあえず、そんなところで。

わたしの生きがい論―人生に目的があるか

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