理由って大事だよね
ちかごろ、家族で さんぽを する ように なった。
スマホゲームの 『ピクミンブルーム』 を はじめて から 五カ月が たつ。
父と ともに はじめて から、あっと いう 間に 家族の あいだで 大ブームを まきおこした。
その 効果は バツグン だった。
いつも なら こんな さむい 時期に わざわざ あるこうとは しない。それが 今では、ピクミンで 花を 植える ため だけに あるく こと すら ある。
でかけ先 でも ビックフラワーが みえれば、みんなで 花を 植える ために あるく。
ただ あるく ように なった だけ では ない。ピクミンを とおして、家族間の コミュニケーションも かくじつに ふえた。
家族と ともに さんぽを すれば、景色を みながら 会話が はずむ。ピクミンに ついての 情報を おしえあう ことも しばしば。
ピクミンを はじめる までは、ここまで 自分の 行動に えいきょうを あたえる とは おもっても いなかった。それも、わたし だけ ではない。ピクミンブルームは、わたしたち 家族全体の 行動をも かえてしまったのだ。
ピクミンの ゲームシステムは いたって 単純だ。
まず、ピクミンに エキスを あげると 花びらが 手に はいる。
その 花びらで 花を 植えながら あるいていると、また エキスが 手に はいる。
そして、その エキスを ピクミンに あげると また 花びらが 手に はいる。(以下ループ)
よく かんがえると、なぜ ここまで ハマッているのか わからない。それでも 花を 植えないと 気が すまない。
心理学に カチッサー効果と よばれる 心理現象が ある。
心理学者の エレン・ランガーが おこなった 実験が 有名だ。
コピー機に ならぶ 行列の 先頭で 順番を ゆずって ほしいと たのむ。
そのとき、つぎの 3種類の やりかたで おねがい する。
- 「すみません。五枚 だけ 先に コピーを とらせて もらえません か?」
- 「すみません。五枚 だけ 先に コピーを とらせて もらえません か?いそいでいる もので。」
- 「すみません。五枚 だけ 先に コピーを とらせて もらえません か?何枚か コピーを とりたい もので。」
ひとつ目の やりかたで 順番を ゆずって くれる 人は それほど おおくなかった。
ふたつ目の やりかた では ほとんどの 人が 順番を ゆずってくれた。「いそいでいる」ことは 正当な 理由で ある から 納得できる。
しかし、みっつ目の 「何枚か コピーを とりたい」と いう のは、とても 正当な 理由 では ない。行列に ならんでいる 人は だれだって コピーを とりたいに きまっているの だから。
それにも かかわらず、みっつ目の 方法で たずねると、ほとんどの 人が 順番を ゆずった。
これは カチッサー効果に ついての 一例だが、ほか にも 日常的に カチッサー効果は 使用されて いる。
わたしが 参考に した 本 『Think Smart: 間違った 思い込みを 避けて、賢く 生き抜く ための 思考法』 には こんな 例が のっている。
「理由」を 告げなければ、社員の モチベーションは 低下する。
あなたが 経営する 靴メーカーの 存在意義は 靴を つくる ことに ある、という だけ では だめ なのだ。(靴メーカーは まさに そのために 存在しているの だが)。
たとえば、こうした 経営理念を 掲げなくては ならない。「当社の 靴で 市場に 革命を 起こす」(よく ある のは、こんな 感じ だろうか)、あるいは「女性の 足もとを 飾る ことで、世界を 飾る」などと いう のも いい かも しれない。
このように、理由っぽい ものが ある ことで、たのみごとの 承諾率が あがる ことを カチッサー効果 と いう。
ささいな たのみごとで あれば、理由は こじつけで あっても もんだい ない。
わたしは この 理由づけが 人生に おいても ひじょうに 大切だ と かんがえる。
理由づけは 合理的で ある よりも、むしろ 多少 非合理で あった ほうが いい。
合理的か どうか では なく、自分が 納得 できるか どうか だ。1
わたしの 場合、「健康に いい」だけ では なかなか あるく 気に なれなかった。
そこに、ピクミンが くわわった ことで、あるく ように なったの だ。
客観的に みれば 無意味な もので あっても、人は うごく ものだ。