大塚国際美術館から、東方教会における「死」理解をかんがえた
先日、大塚国際美術館へいってきました。
くわしい内容は、このブログを共同で更新しているヨセフが、記事をかいています。
それまで、美術館へはあまりいったことがなく、関心もうすかったのですが、想像以上にたのしい時間でした。
朝一番に入ったにもかかわらず、古代、中世で時間をつかいすぎて、時間切れに。
近世、現代はほぼみれず、ざんねんでした。
みていると、さまざまな発見がありました。
たとえば、紀元前後の絵というと、みんなエジプトの壁画だとおもっていたんですが、そんなことはなかった。ちょっとおどろきです。
展示はヨーロッパ芸術がほとんど。
なかなかみることのできないものをみれてしまうのだから、すごいものです。
中世は東方教会と西方教会の美術が対になって紹介されていて、おもしろったですね。
なんとなく、西方美術は過去のものを批判的にとらえながら成長している印象をもちました。
一方、東方は過去のものをベースにしていながら成長しているっぽいな、と。しろうと感覚なので適当ですが。
そんなこんなで、かえってきてから、こんな動画をみつけました。
東西教会の神学や世界観のちがいがわかりやすく解説されています。
動画後半に登場する美術品は、大塚国際美術館でもみられます。わたしはみたことをすっかりおぼえていませんでしたけれど…。
以前、東方教会の奉神礼(礼拝のこと)にいったときのことをおもいだしました。
そこできいた歌が耳にのこっています。
ハリストス(=キリストのこと)死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓にある者に生命を賜へり。
この歌は、復活祭の時期に歌われるものです。わたしが行ったときは丁度この時期でした。
なぜ東方教会において、死をほろぼしたことや、キリストが陰府にくだったことが重要なのか、すこしだけわかったような気がします。
キリスト教信仰において、神は命だとされます。
アダムとイブの罪とは、その命なる神からはなれたこと。命から はなれれば、当然いきつく先は死です。
でも、神が死の中に はいったとしたら、どうでしょうか。死の中に命がいるわけでして、大きな矛盾をかかえることになります。
まるで暗やみのなかに光がはいるように、死のなかに命がはいれば、死はきえさります。
だからこそ、キリストの陰府下りは、東方教会における重要な信仰なのではないでしょうか。
この信仰は、マタイによる福音書27章52節の「墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」と関連しているようです。
また、使徒ヨハネの弟子イグナティウスにも、こうした信仰がみられます。
だとしたら、どうして私達は彼なしに生きることができるでしょう。預言者達も聖霊によって彼の弟子だったのであり、彼を師として待ち望んでいたのです。それゆえ、彼らが正当にも待ち望んでいた方(キリスト)が到来したとき、(彼は)彼らを死人の中からよみがえらせたのでした。
イグナティオスによるマグネシアへの手紙9:2
もっとはやく動画をみていれば、美術館をさらにたのしめたのかもしれない、とおもったのでした。
また再び声がして、「戸よ、あがれ」と言った。冥府は、まるで何も知らないように、二度目にはこの声に答えて言った、「栄光の王とは誰か。」主のみ使いたちは言う、「強くして力ある主、戦いに強い主である。」そしてすぐに、このことばと同時に、青銅の戸はくだけ、鉄のかんぬきはつぶされた。そしてしばられていたすべての死人は、その縄目からときはなたれた。その中に我われもいた。栄光の王は人間のような姿をしてはいって来た。そして、冥府の一切の闇が光に照らされた。
外典 ニコデモ福音書21:3
イグナティオスによるマグネシアへの手紙:
ニコデモ福音書: